Fate Grand Order 汎人類史とポストヒューマンの時代

FGO三周年おめでとうございます!今日から待ちに待った水着イベですね。しかもなんと今回はコミケを元にしたイベント!!創作意欲が高まった自分も評論活動に勤しみたいと思います!!!

 

今回は、最近の進化学、人類学の観点から、FGOについて考える評論をしたいと思っています。というのも最近の人類学の知見とFGOの物語が面白いクロスを生んでいるからです。

 

※自分はFGO、ナポレオンが出たところまで進めています。それを前提に書いているのでネタバレ厳禁な方はお気をつけください。

 

強烈なまでの人気を博すアプリ、Fate Grand Order

 

Fate Grand Order(以後FGO)は大人気スマホゲームである。その破滅的な(笑)面白さから過金額がうなぎ上りで、一時期世界第二位まで上り詰めたほどである。なぜここまで人気になれたのか。

 

FGOの元は、TypemoonのFateを元ネタにしたアプリである。

 

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Fateの特徴は英霊召喚システムである。全ての願望を叶えてくれる聖杯を求める7人の主人が、過去の偉人を現代に召喚し、バトルロワイヤルを行うストーリーである。(ある種、宇野常寛がいう決断主義の物語と言えるかもしれない。)本作ではアーサー王ヘラクレスギルガメッシュなどが出てくる。

 

FGOはこの召喚システムをそのままにさらに偉人を増やし、ジャンヌ・ダルクレオナルド・ダ・ヴィンチ玄奘三蔵シャーロック・ホームズなど古今東西、実在・フィクションを問わず有名な英霊を召喚して、過去の異変を修正する旅に出る。奈須きのこの協力による壮大な物語、スマホでありそうでなかった巨編RPG、そして歴史的英霊との世界救済の旅に多くのオタクはメロメロになったのだ。

 

RPGとは言いつつカードゲーム的なスタイルではある。しかしFGOが真に斬新なのは、据え置き機と違ってお手軽ゲームであるはずのスマホアプリにギャルゲー並みの文章量を詰め込んだ点である。たまに10分以上あるんじゃないかという話があって電車を降りれなくなりそうな時もあるほどだ。ゲームの歴史の観点から見てもFGO現象は非常に興味深いものであることは疑いえない。)

 

新編:汎人類史を超えた世界

 

FGOは2017年に無事二周年を迎え、過去の異変を修正する旅に終止符を終えた。全ての異変を修正し終わったのである。普通のゲームであればここでメデタシメデタシであるが、そうは問屋がおろさない。ここまで大きくなったドル箱アプリを終えることはありえないのである。

 

そこで2018年より新編が始まったのだが、最初から面を食わされてしまう。世界を救ったにも関わらず、新たな敵により世界は、というよりは人類は主人公一派を残してほぼ滅ぼされてしまうのである。人類を救済するために新たな旅に出るのが第二編の出発点である。

 

人類は絶滅してしまうのか、それは良いことなのか否か、といった議論を醸し出す物語になっているのだが、実はこの論点は現在人類学や哲学で急速に盛り上がりつつある論点となっている。環境破壊やAIの発達により、今後人間社会が本当に持続可能なのか、が問われるようになってきているからである。(現代思想 2015年9月号=絶滅 人間不在の世に吉川 浩満、千葉 雅也、大澤 真幸の絶滅に関する鼎談があるのでこちらをご覧いただくとその論争の模様を覗くことができる)

 

人類はいかにありうべきかという大それた話ではあるが、FGOを元に話すことでリアリティとさらには現在の哲学的論争対する新たな面白い切り口を提供してくれると思われるので語っていきたい。

 

人類を救済することは本当に正しいのか

前述した通り、新編は人類がほぼ消滅した世界である。そこで、主人公たちは7つのパラレルワールドFGO世界でいう剪定自称)に迷い込む。ありえただろうが、やむなく達消えてしまった世界、いわば過去の可能性の世界である。

 

第一章のロシア編では、世界は極寒の大地で覆われ人間はいきられないような環境、という設定となっている。そこではヤガという新たな人種?(狼人間のようなもの)が繁栄している世界である。

 

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第二章の北欧では、進撃の巨人のような設定が取られている。世界は巨人で溢れている。この世界には人間はいることはいるのだが、人口制限により1万人しかいきられず、ピーターパンの世界のように25歳になると巨人に踏まれ死ぬ運命を定められている。

 

主人公パーティーは世界を救うため、パラレルワールドと立ち向かうことになる。FGOの舞台設定が巧妙なのは、汎人類史、すなわちこれまでの人類を救うためには、パラレルワールドの世界の生き物全てをなかったものにしなければならないところにある。(というのも剪定事象を認めれば、これまでの汎人類史を否定することになるからである)

 

第一章のロシア編でこの設定を主人公は知らされることになる。そして悩む。汎人類史を救うためとはいえそのようなことをする権利はあるのか、と。最終的には自分の住んでいた世界のために、パラレルワールドを壊すことに成功する。というのもパラレルワールドのロシアは厳しい土地であり、ヤガは苦しそうに生活していたからである。まだ第二章はクリアしていないが、25歳までしか生きられない世界に対する憤慨が見られるため、北欧の章もそのような理屈付けで汎人類史のための旅を続けるのではないかと思われる。(だが考えて欲しい。北欧の人間は25歳で死ぬことになんの不自由も感じていない。我々の基準を勝手に、いや独善的に当てはめているだけであり、あちらではそれが当然なのだ。)

 

そのため主人公は苦悩していて(るように見えて)もプレイヤーはそこまで苦悩していないかもしれない。なぜなら我々の世界の方が優れており、あちらの世界の方はかわいそうだからだ。しかしこの理屈付けによる汎人類史の肯定はすぐに逆転しうる。もしパラレルワールドの方が優れているとしたら、消滅するべきは我々の世界の方だからだ。これは現実の世界でもそうなるかもしれない。AIによる人口生命体が人間を超える日が来るかもしれない。

 

おそらくFGOでも今後汎人類史を超えるような素晴らしい世界と主人公は敵対していくのではないだろうか。もしそうなったとしたらどのような理論で汎人類史を肯定するだろうか。

 

汎人類史の三つのシナリオ

 

一つの方法は宇野常寛の言う決断主義だろう。特に理由はないが俺は汎人類史のために戦うというような類のものである。FGOの主人公が「俺が世界を救う(ドンッ」というのは確かにありそうな感じである。

 

また、FGOの主人公がとりはしないだろう選択肢だろうが、哲学的にあり得るのは諦めるというものである。そもそもなぜ人類(しかも今まで歴史を積み重ねてきた汎人類史)だけが絶滅を免れて然るべきなのだろうか。考えてみると積極的に肯定しうる論拠などないのである。他の種を殲滅してまで生き残って良いというのは倫理的な振る舞いだと言えるだろうか。

 

私はその二つではない新たな選択肢を提示したい。それはある種古めかしくもだからこそ王道な考え、そう、仲間のためである。パラレルワールドを殲滅するのは大変忍び難く苦しいことである。それが自分より高い文明にある世界ならばなおさらだ。だが、仲間の生存のために、ありうべき可能性を探る。FGOの主人公が取るのはそのような利他的な理由であって欲しい。

 

何をジャンプ的な話を、と思われるかもしれないが、生物の進化の観点からいくと至極真っ当な議論ではないかと思われる。人間社会においてこれまで行われてきたのは仲間のために社会を守るということであったからだ。(もちろん、利他的な行為が、他者との争い生む問題や、仲間すらいなくなった世界においてはどうするのか、という議論は残るがそこまで議論を広げると収拾がつかなくなるので後日の宿題としたい)

 

ゲームの歴史的にも人類学的にも非常に興味深い現象をFGOは生み出し続けている。正直歴史オタな自分からすると過去の世界の修正の旅の方が面白かったのだが、SFチック な新編も学問的に非常に興味をそそられる出来になっている。FGOの今後の世界観の提示が待ち遠しい、などと締めようと思ったがそんなことより水着ジャンヌと牛若引けたの自慢したい!!!