『聲の形』からコミュニケーションについて考える

あー、社会めんどくせえ、と思った日に『聲の形』を見た。その時々に適切な映画や音楽に出会ったりするので不思議なものである。

 

どうも自分はネタバレせずには映画を語る才能がないらしい。今回もガンガンネタバレしつつ『聲の形』について語っていきたい。

 

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ストーリー

 

聲の形』は耳が聞こえない少女、西宮硝子を主人公石田将也がいじめるところから始まる。これがとても嫌という程リアルで良い。小学校という共同体特有の明るいイジメ(いけてる感)がこれでもかと描き出されている。小学生時代を思い出してもこういうことは日常茶飯事だったのでとてもわかる。いじめっ子だった将也が反転、いじめられっ子になる所とか小学生らしい。

 

物語の中心はイジメをしたという消せない罪を背負ったまま将也が高校生になったところからである。人間に不信を覚える将也は友達のいない生活を過ごす。そんな無味乾燥な日々を送っていたが(自殺未遂までいった)、手話を覚えて硝子に会いに行き、なんやかんやあってかつての小学生時代の友達や、新たな友達を得て行くことになる(ここはそんなに重要なところではない笑)。

 

ディスコミュニケーション

 

ところが、である。そんな友情の共同体を将也はぶっ壊す。「硝子と仲良いけどお前いじめてたじゃん」と言われた将也が「じゃあお前らだって○○、△△……」と本音をぶつける。なあなあで集っていた友情共同体に水を差し、仲良しこよしグループは解散してしまう。ここが本作品の重要なテーマ、ディスコミュニケーションである。「耳から言葉が聞こえていても本当に我々は分かり合えているのか?」、「じゃあ分かり合えるとは?」。

 

グループが再び仲良くなるようになるのだが、そのために必要だった行為が大変興味深い点なので説明したい。人生の辛さから硝子は自殺しようとするが、将也がそれを助けようとして死にかける。硝子は将也のために再び友情を構築したいと考え、勇気を持っていろんな人に呼びかける。

 

ディスコミュニケーションを越えるためには?

 

本作品はそんな彼女のひたむきさが周りを動かした、と主張してくる。だが、本当にそうだろうか。わたしは違うと主張したい。周りが動かされたのは将也が死にかけた、まさにその事実にある。痛いところを突かれるようなコミュニケーションをとったが、二度と会いたくないような人物では決してない。だからこそ、二度と会えなくなるかもしれないという事実が、日々のコミュニケーションの尊さの感覚を呼び覚まし、再び集ったのである(ぎこちなくはあるが)。

 

ここに社会科学の問題の一つであるポストモダンを突破する一つの鍵がある。愛とか友情とかいうけど本当に伝わってんの?それって作り上げられた嘘じゃないの?と現実の虚構性を暴き出したのがポストモダンだった。とはいえ、じゃあ全くの嘘なのか。そんなことはない。伝わりあったと思うのが嘘だとしても、それが嘘だとわかった後に社会を生きることの意味とは何か。それを『聲の形』は、その作品が考えるところを超えて教えてくれる。

 

ちなみにオチまで書くと(笑)、声が聞こえてるはずの将也は自分で耳を閉ざしていたことに気づき、耳を澄ましてみると世界は実は美しかったのだと涙を流すシーンで終わりを迎える。TVエヴァ自己啓発的エンドっぽくはあるが、悪くないオチだと思う。

 

サブカルからディスコミュニケーション問題を考えるために

 

まあでも毎回死にかけなければならないのかと考えると気が滅入る。多分他の方法があるはずである。さてここまで書いたらサブカル好きな人ならある作品が思い浮かぶのではないだろうか。そう『俺の青春ラブコメは間違っている』である。なあなあの友情ごっこをぶち壊し、言葉を語り尽くしても分かり合えないと認めつつ、それでも人と繋がりたいと考える比企ヶ谷くんの物語である。ちなみにこちらは未だ物語が続いているためその答は未回答のままである。自分でもその回答を考えつつ、俺ガイルの回答を待ちたい。ちなみに調べたらラノベ最新刊出たらしいので読んでみる。

 

人の顔にバッテンが張られ社会を生きるのが嫌になる話とか、何でも受け入れてくれる女の子ってどうなんとか、もっとエグいぐらいわかり会えなくても良かったかもとか、結局姉ちゃんは顔でないままかよとかまだまだ語りたいことはあるが、ゆづるくん可愛すぎるだろというの最も伝えたかったことかもしれない。