映画『二重生活』ーー理由なき尾行の快楽

門脇麦長谷川博己菅田将暉リリー・フランキーなどが演じる『二重生活』を見た。とても興味深い映画である。今回は短めに感想をかく。

 

あらすじ

 

直木賞作家・小池真理子の同名小説を、ドラマ「ラジオ」で文化庁芸術祭大賞を受賞するなど、数多くのドラマやテレビ番組を手がける岸善幸の劇場デビュー作として映画化。

門脇麦演じる大学院生が近所に住む既婚男性を尾行することで、他人の秘密を知ることに興奮を覚えていく。

大学院の哲学科に通う珠は、担当教授のすすめから、ひとりの対象を追いかけて生活や行動を記録する「哲学的尾行」を実践することとなる。

最初は尾行という行為に戸惑いを感じる珠だったが、たまたま近所に住む石坂の姿を目にし、石坂の姿を追う。

一軒家に美しい妻と娘と暮らす石坂を、珠が尾行する日々が始まった。

主人公・珠役を演じる門脇は本作が映画単独初主演作。石坂役を長谷川博己、教授役をリリー・フランキー、珠の恋人役を菅田将暉がそれぞれ演じる。

(映画.comより)

 

考察

 

大学院生である門脇麦は論文の内容に困っていた。100人へのアンケートを提案するも哲学科のやることではないと一蹴される。その後、教授より提案された1人を徹底的に理解する「理由なき尾行」をテーマに採用する。正直とんでもない教授である笑。自分も大学院生だったのでわかるが、リリー・フランキー演じる教授がああいう面白いテーマ出してきたら冗談半分で乗るかもしれない。(まあやらないけど)人の人生は最低でも新書一冊かける程度には内容の詰まった思想があるという話もあるが、それを論文にさせるという自でいくすごいやつかもしれん笑。

 

そして尾行対象が案の定面白い設定で、妻子持ちで仕事も順調、莫大な遺産も引き継ぐセレブにも関わらず不倫を平気でする男なのである。そうこれが映画のテーマ、日常と非日常を営む「二重生活」なのである。

 

ちなみに不倫はすぐバレる。すぐにそういうドラマチックなシーンに出会えちゃうのが映画らしいが、まあでも愛すべきクレイジー哲学教授以外は割と全員普通な感じでとてもリアルだと思う。人は誰しもそれぞれの二重生活を営んでいるだろうし。

 

そして尾行していたことが対象からバレる。逆に尾行され追い詰められ論文を書くなと切り出される。涙ながらに論文を書かせてとすがりながらキスをし、その後対象と菅田将暉には言えないような情事に陥る。

 

ここが面白いのだが情事の時にパパーパパーって携帯が鳴ってやめてしまう。日常への揺り戻しだ。その後麦の告白が始まる。亡くなった父の代わりに励ましてくれた父の親友のことが好きで、恋人の菅田将暉にも伝えられない思いを持っていた。そう彼女も二重生活者だったのだ。

 

門脇麦が可愛いとか、尾行がスリリングというのもあるが(メタルギアソリッドシリーズの流行からもわかるように人は尾行・スニーキングに興奮する生き物である)、本作の良さは理由なき尾行によって暴きだされる生活の二重性である。単に日常を生きるだけでは足りないもの、深いところの哲学的な(超越)、空っぽを埋めてくれる何かを求めてやまない人たちの生活を垣間見てしまった浮遊感である。

 

でも長谷川博己は最後ちゃんと日常に戻って愛しい娘のところに行くんだよね。論文書けよと言い残して。ちなみに書いてないが教授も二ヶ月の偽装結婚をしていた二重生活者で、門脇の論文を楽しみにしているという。みんな二重生活のその後の救いというか、この後の生き方について悩んでいるわけ。なお門脇麦菅田将暉に別れを告げられながらもちゃんと「現代日本における実存とは何か」という修論を書き終えて日常に回帰して行く。

 

気になる論文の一節が以下の通り。

 

〝平凡で、穏やかで、裏切りも隠し事もウソもない。
ひたすら公平な愛だけで満たされている人生など、どこにもない。
人は苦しみからも逃れられない。
ほんの少し、その苦しみを軽くしてくれるもの。
きっと、それが秘密である。
理由のない尾行とは、他人の場所と立場に身を置くこと。
自分を他人と置き換えること。
すなわち、互いの人生、情熱、意志を知ること。
それは、人間が人間にとってかけがえのない存在となる、おそらく唯一の道ではないだろうか。〟

 

俺の修論よりめちゃくちゃいい内容で正直悔しい笑。結局みんなそうやって生活してるんだという気づきが救いになるのだと結論づける。最後の渋谷のスクランブル交差点がそれを表現している。雑多な透明な人々、でも彼らもそうやって二重生活をしてるんだろうなと想像できる。そうして自分と他人の境界線の揺らぎを感じつつ、実存を生きるのだ。

 

まあでも今の渋谷だからこそそういうのを表すのに最適になってしまった感あるよね。もっと前の援助交際とかが盛んな渋谷なら皆そんなん知ってるし(笑)みたいな感じなってたんじゃないかな。みんなの生活が見えなくなって、二重生活どころか、そうした次元を超えてきてしまったところに実存の揺らぎというか、自分が何者かわからなくなってしまった原因がある。もう少し前の普通の生活を知るというのはこれからの社会を生きるための術を得ることになるかもしれない。

 

 

結局長めに書いてしまった。つか全部電車が東西線なの親近感すごい笑

BiS−プー・ルイ=BILLIE IDLE®️+プー・ルイ=BYS=プー・ルイの存在

今までアニメとかゲームについて語っていましたが、今日はアイドルについて語っていきたいと思います。記念すべき第一弾は僕の大好きなプー・ルイさんについて!

(イエーイ!プー・ルイさん見てますか!?是非BYS出してください!笑) 

 

プー・ルイ

プー・ルイさんはアイドル好きであれば知らない人はいないトップ・オブ・トップアイドルです。

 

ããã¼ãããã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

 

いやまじ尊すぎてしんどい…。他の写真変顔が多いけど(笑)普通に美人なんだよな…。

 

プー・ルイさんの簡単なプロフは以下の通り。

 

プー・ルイPour Lui1990年8月20日 - )は、日本女性歌手YouTuberBILLIE IDLEのメンバー女性アイドルグループBiSの元リーダー。音楽グループLUI FRONTiC 赤羽JAPANの元ボーカル。キャッチコピーは「ニューエイジロックアイコン プー・ルイ」。プー・ルイという名前はフランス語で「彼のために」を意味する。

Wikipediaより)

 

歳書いちゃダメでしょ(笑)ちなみに自分は1990年7月3日生まれなので勝手に親近感を感じている。

 

伝説的アイドル

 

プー・ルイさんと言えばその破茶滅茶なパンク性が有名でそこが好きな人も多いかと思います。自分もその1人。

 

なにが伝説的なのか知らない人のために彼女のデビュー曲のPVを貼っておきます。

 

www.youtube.com

 

裸(笑)いやまあ画像処理してるんですけど、アイドルが裸て(笑) 

 

まあでもこうした炎上芸が奏を功してアイドル界を登りつめていきます。多くのファンを巻き込みながら活躍、その後絶頂に達したBiSは幕を閉じるのでした。(飛ばしすぎではあるけど語ると一冊の本になっちゃうから…本題は次からだから…)

 

第二期BiS

 

ポストBiSは群雄割拠の時代に突入、プー・ルイとBiSで活躍してきた盟友・渡辺淳之介は新しいBiS、BiSHを作ります。一方プー・ルイLUI FRONTiC 赤羽JAPANとして活動していきます。その後誰もが予想していなかった、そして誰もが待望していた新生BiSの結成を迎えます。

 

www.youtube.com

 

このPV本当100回以上見た。プー・ルイが世界を変えてくれるんだ、俺たちが世界を変えるんだという期待感が本当高揚感かきたてるんですよマジ(泣)

 

アイドル界を駆け抜けるためには裸にもなって駆け出すあのプー・ルイさんが帰ってきたんだ!とみんな思ったのです。渡辺さんの差し金でマジAV監督に映画撮られたりとか色々苦労絶えないあの方が(涙)

 

第二期BiS結成もドタバタでした。モー娘。方式の合宿でメンバーを決定することになっていたのですが、合宿に審査員枠で参加していたはずのプー・ルイさんが急遽審査される側になっていたり…。(しかも音楽Pの松隈さんが声かけしてなければ渡辺さんはプー・ルイ落とすつもりだったとか)

 

まあでも初期BiS後にGANG PARADEを結成したカミヤサキが電撃的トレードでBiSにきたりとか本当色々心にくる展開があるんですよBiSは。天才的男渡辺氏によって笑。

 

突然の卒業

そんなプー・ルイさんが今年電撃的に第二期BiSを卒業するという未曾有の事態が起きます。え、嘘、まじ!?とオタクどもは狼狽。しかもその後YouTuberになり、そしてBillie Idle®️に電撃的加入というとても慌ただしい事態。様々な憶測を呼びました。(気になる人はプー・ルイ 卒業 なぜ とか検索してみて)

 

当時は不仲説とか歳説とかにわかに流れましたが、プー・ルイさんの言葉と時代性を把握すればそういうことじゃないやろ!とツッコミを入れたくなります。プー・ルイさんがBiSから卒業したこと、Youtuberを始めたこと、Billie Idle®️に入ったこと、全てはプー・ルイというアイドルと時代への抵抗という観点から語れるように思います。

 

プー・ルイとは、そして現代における求められるアイドルとは

 

ここまでは議論を展開するための確認で今からがやっと本題笑。

 

プー・ルイさんが卒業した理由を彼女の言葉から探るとすると空気感だと思います。卒業インビューでは以下のように語っています。

 

プー・ルイ:アイドルシーンが変わってて、(中略)

AKB48ではなくて坂道(乃木坂46/欅坂46)が前に出てきていたりとか、ちゃんと綺麗な正統派が評価されていたりとか……だからビックリしました。「やべぇ! 私たち、綺麗じゃねぇな」って(笑)。

http://www.billboard-japan.com/special/detail/2264

 

これプー・ルイ1人の実感ではなく割と共有されている事態だと思います。

 

新生クソアイドルとして始まったBiSHも渡辺さんが言うように嫌なことをしたら嫌われるのであまり炎上しないようにしたと言っています。オチ○コ言わせて売れて、で少し自制させたりとかしてますしね。今はチン○しこってろ的異端とLife is beautiful的正統派アイドルをうまく綱渡りしようと試行錯誤している段階だと思います。

 

AKBより坂道が売れているというのも事実です。クラスで3番目ぐらいに可愛く、みんなで支えるアイドルがコンセプトのAKBからダントツで可愛く踊りもできる乃木坂にオタクはうつりつつあります。社会評論を書く宇野常寛氏は秋元康氏がボトム・アップのアイドルからトップ・ダウンのアイドルへと言う時代を読み取ったためだと評していますがこれは本当そうだと思います。(なぜ今トップダウン正統派の時代へ移った社会的背景についてはここで述べるには膨大すぎるのでまた今度。ここで簡単に言っておくとアイドルの地下性と売れたアイドルのメジャー性のギャップがそのヒント)

 

そんな正統派の時代に違和感を抱いていたのが誰でもない異端派アイドル、プー・ルイでした。

 

プー・ルイ:オーディションが終わっていざ動き出したら「あれ?」みたいなところは正直ありましたね。でも1年半やってて「なんか違うな」とは思っていながらも分からなかったんですよ。100キロマラソンやってても「なんか違う。なんでみんなあんなに速く走る? クソ速ぇ!」みたいな(笑)。車中泊ツアーやっても「なんか違う。もっとヤバい空気が流れて、メンバー全員狂って、スタッフさんたちも全員狂う企画だったのになぁ。狂ったの、私だけ!」みたいな。

 

BiSとはアイドルが苦悶する表情を見せるアイドルであると言うコンセプトを主張しているプー・ルイさんにとってはこれはとても大きな転換だったと思います。自分は強烈なオリジナリティを示して承認欲求を満たしたい世界を変えたいプー・ルイにとって売れるために正統派になることは違うんだと思います。(まあ確かに第二期BiSまだ誰も裸なってないしね笑。ゴジラの裸見たくない?笑、そして泣)

 

プー・ルイの強烈なオリジナリティ

 

そうプー・ルイのすごいところは何と言っても普通の人では生み出せないような新たな形を見せてくれるところなんです。プー・ルイがBiS辞めて始めたYouTube見たことあるひといますか?これまじアイドルかよ!笑って作品めちゃ多くて面白いんでぜひ見て欲しい。

 

www.youtube.com

 

第一期BiSと乳繰りあってる笑。

 

破茶滅茶で、でも何か新しい世界を見せてくれそうな気がする。そんなアイドルがプー・ルイなわけです。

 

でも正統派のこの時代にそうしたアイドルは時代遅れなのでは?と言う意見もあるかもしれません。ですが、死中に活あり。危機の中に救いあり。正統派復権の時代だからこそドタバタしてるアイドルにオタクは興味そそられるのです。正統派が今後増えていくからこそ非正統的、世界への反抗的アイドルとのギャップが大きくなり、その分彼女は輝いていくわけです。世界への抵抗性を示すBillie Idle®️のパンク性はプー・ルイが輝く最高の土壌なわけです。

 

見てくださいよ次の言葉。ビリーのライブにくるオタクを一刀両断

 

プー・ルイ 「どんなもんだ!」って、来た人を全員ぶっ殺す気持ちでいます(笑)。

https://natalie.mu/music/pp/billieidle05/page/3

 

プー・ルイさんにぶっ殺されたいオタクはいっぱいいるんじゃないでしょうか。今までの自分の淀んだ世界をぶっ殺して新しい世界へと導いてくれる気がするから。これからのビリーが期待大であることは言うまでもありません。

 

(と言うかIDOLじゃなくてIDLEだしね笑)

 

プー・ルイが抜けた後のBiS

 

プー・ルイが抜けた後のBiSは面白くなくなったのか?そんなことはありません。むしろプー・ルイの抜けた穴を埋めようとみんな躍起になっていてとても面白い展開になってきています。エースを目指すと標榜するパン・ルナ、100kmマラソンを完走したアヤ・プリ、そして新たな合宿で入ることになった新規メンバー達。ダイエット企画などでドタバタを生んできたプー・ルイが抜けた今だからこそ、ドタバタしてなんとかあがきならアイドルとして確立しようと生き延びをかけて戦っています。これも世界を変えようとするプー・ルイが生んだBiSの新たな変化だと思います。

 

まあこれもプー・ルイさんの目論見通りなんですけどね。マジ策士。

 

でもプー・ルイさんは卒業発表の際「後輩たちがなかなか越えられないようなBiSを作るっていう壮大な嫌がらせを最後にして、私は居なくなりたいと思います」と仰っていましたよね?

BiS『WHOLE LOTTA LOVE / DiPROMiSE』プー・ルイ卒業インタビュー

プー・ルイ:はい! それはします! やっぱりそれはしないとダメだと思うから。「プー・ルイがいないBiSはBiSじゃない」と言われないといけないと思うんですよ。いっぱい叩かれるべきだと思うから。これは嫌がらせというか、それを乗り越えてきたのがBiSなので。

 

本当BiSもそしてBiSHもギャンパレも帝国も目が離せないですね。WACK勢は。

 

 

色々語ってきましたがそれはちげーよバカと言うプー・ルイさんがいたら是非BYSにお呼びください!そしてプー・ルイすげぇと思ったオタクは握手会行ってください!まじ神対応でこれがトップアイドルかと思いますから!!!まじ同い年とは思えないほどのすごさだよ。人生経験の差たるや…!

 

以上僕の大好きなプー・ルイさんはマジやべえからでした。

C94から考えるコンテンツの盛衰

サブカル好きを自称していた自分ですが、実はこの前初めてコミケ参加しました笑。思っていたよりもすごく秩序立っていてオタクコミュニティの紳士淑女ぶりに感動しました。まあでもアキバと一緒で観光地感はあったね。

 

さてFGOが緊急メンテで遊べないから評論しちゃうよ。

 

C94のジャンル

 

C94は何と言ってもFGO最盛の時を伝えるコミケといっても過言ではないだろう。コスプレの半分はFGO関連のキャラクターだったと思う。(あとはリゼロのレムりんとはたらく細胞の血小板ちゃんで123フィニッシュじゃないかなぁ。それにしてもアイマスコス少なくなったなぁ涙)

 

統計情報がこの実感を裏付けている。

 

f:id:sheep104108:20180816200933p:plain

http://ascii.jp/elem/000/001/717/1717817/

 

FGOがダントツである。艦これ、アイマスがこれに続く。(しかし東方すげぇな)

 

 

課金ゲーの時代へ

 

据え置きゲームの時代は終わった、時代はソシャゲだと言われて久しいが、それもすでに古いように思われる。アニメの時代は終わった、時代は課金ゲーである。(ちなみに東浩紀などが称揚していたニコニコ動画も盛者必衰の理をその身をもって示している)

 

ラノベやゲームなど多様な媒体があるが、やはり基本はアニメがオタク文化を支えていた。涼宮ハルヒらき☆すたひぐらしのなく頃にコードギアス…etc。振り返ってみるとアニメ黄金時代だったと言える。でもC94では上位5位にすら入ってこない。(確かにアイマスはアニメとの相乗効果もあるがそれでもやはりその基盤はデレマスアプリである)

 

考えてみればFGOのキャラクターコスプレでコミケが埋まるというのはとんでもない事態である。あのアホみたいに長いゲームでいっぱいキャラクターが出てさらにクソほど課金させられるゲームのキャラクターで埋まっているのである。

 

なぜこんな事態が起きているのか。答えは単純。魅力の差である。アニメより断然課金ゲーの方が面白いからである。課金ゲーは何も考えずに遊べるのがいいと思われがちだが、やはり魅力がないと人は課金しないのである。

 

コンテンツの輝きを考えるとやはり金を使えるところは強い。多様な才を集めて作品を作れるからである。FGOなんてやっていることは現代版紙芝居にも関わらずその技術と絵と文章力で、そして我々の積み上げたとんでもない額の課金によって最高の旅へと導いてくれる。(運営にお布施課金するのは実はオタク市場を盛り上げるための崇高な行為なのかもしれない。)ちなみにNETFLIXのオリジナルコンテンツが面白いのもこれによる。

 

一方でアニメは苦しい時代である。SHIROBAKOを見てればそりゃアニメ制作はなとなる。

 

それが良いか悪いかは別にしてオタク市場は完全に分岐して新しい世界に変わったことは間違いない。平成最後の今年のコミケからサブカルチャー史の変遷が見て取れる興味深い結果となった。コンテンツ論として東浩紀宇野常寛などがニコニコ動画に注目していたが、すでに時代は課金ゲーへと突入し、平成サブカルチャーから新たな時代へと船出を初めている。(平成サブカルチャー史を振り返るためにも次回かその次くらいのブログでニコ動から課金ゲーへ、そしてソシャゲーから課金ゲーへ移行したことの意義について考えてみようと思う。)

 

次の課金ゲーで面白そうなのはアークナイツであると睨んでいるがどうなることやら。(絵的にブヒれることは間違いない)

 

 

Fate Grand Order 汎人類史とポストヒューマンの時代

FGO三周年おめでとうございます!今日から待ちに待った水着イベですね。しかもなんと今回はコミケを元にしたイベント!!創作意欲が高まった自分も評論活動に勤しみたいと思います!!!

 

今回は、最近の進化学、人類学の観点から、FGOについて考える評論をしたいと思っています。というのも最近の人類学の知見とFGOの物語が面白いクロスを生んでいるからです。

 

※自分はFGO、ナポレオンが出たところまで進めています。それを前提に書いているのでネタバレ厳禁な方はお気をつけください。

 

強烈なまでの人気を博すアプリ、Fate Grand Order

 

Fate Grand Order(以後FGO)は大人気スマホゲームである。その破滅的な(笑)面白さから過金額がうなぎ上りで、一時期世界第二位まで上り詰めたほどである。なぜここまで人気になれたのか。

 

FGOの元は、TypemoonのFateを元ネタにしたアプリである。

 

https://cs1.anime.dmkt-sp.jp/anime_kv/img/11/48/8/11488_1_1.png?1505102405000

 

Fateの特徴は英霊召喚システムである。全ての願望を叶えてくれる聖杯を求める7人の主人が、過去の偉人を現代に召喚し、バトルロワイヤルを行うストーリーである。(ある種、宇野常寛がいう決断主義の物語と言えるかもしれない。)本作ではアーサー王ヘラクレスギルガメッシュなどが出てくる。

 

FGOはこの召喚システムをそのままにさらに偉人を増やし、ジャンヌ・ダルクレオナルド・ダ・ヴィンチ玄奘三蔵シャーロック・ホームズなど古今東西、実在・フィクションを問わず有名な英霊を召喚して、過去の異変を修正する旅に出る。奈須きのこの協力による壮大な物語、スマホでありそうでなかった巨編RPG、そして歴史的英霊との世界救済の旅に多くのオタクはメロメロになったのだ。

 

RPGとは言いつつカードゲーム的なスタイルではある。しかしFGOが真に斬新なのは、据え置き機と違ってお手軽ゲームであるはずのスマホアプリにギャルゲー並みの文章量を詰め込んだ点である。たまに10分以上あるんじゃないかという話があって電車を降りれなくなりそうな時もあるほどだ。ゲームの歴史の観点から見てもFGO現象は非常に興味深いものであることは疑いえない。)

 

新編:汎人類史を超えた世界

 

FGOは2017年に無事二周年を迎え、過去の異変を修正する旅に終止符を終えた。全ての異変を修正し終わったのである。普通のゲームであればここでメデタシメデタシであるが、そうは問屋がおろさない。ここまで大きくなったドル箱アプリを終えることはありえないのである。

 

そこで2018年より新編が始まったのだが、最初から面を食わされてしまう。世界を救ったにも関わらず、新たな敵により世界は、というよりは人類は主人公一派を残してほぼ滅ぼされてしまうのである。人類を救済するために新たな旅に出るのが第二編の出発点である。

 

人類は絶滅してしまうのか、それは良いことなのか否か、といった議論を醸し出す物語になっているのだが、実はこの論点は現在人類学や哲学で急速に盛り上がりつつある論点となっている。環境破壊やAIの発達により、今後人間社会が本当に持続可能なのか、が問われるようになってきているからである。(現代思想 2015年9月号=絶滅 人間不在の世に吉川 浩満、千葉 雅也、大澤 真幸の絶滅に関する鼎談があるのでこちらをご覧いただくとその論争の模様を覗くことができる)

 

人類はいかにありうべきかという大それた話ではあるが、FGOを元に話すことでリアリティとさらには現在の哲学的論争対する新たな面白い切り口を提供してくれると思われるので語っていきたい。

 

人類を救済することは本当に正しいのか

前述した通り、新編は人類がほぼ消滅した世界である。そこで、主人公たちは7つのパラレルワールドFGO世界でいう剪定自称)に迷い込む。ありえただろうが、やむなく達消えてしまった世界、いわば過去の可能性の世界である。

 

第一章のロシア編では、世界は極寒の大地で覆われ人間はいきられないような環境、という設定となっている。そこではヤガという新たな人種?(狼人間のようなもの)が繁栄している世界である。

 

ãã¤ã¬ fgoãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

 

 

第二章の北欧では、進撃の巨人のような設定が取られている。世界は巨人で溢れている。この世界には人間はいることはいるのだが、人口制限により1万人しかいきられず、ピーターパンの世界のように25歳になると巨人に踏まれ死ぬ運命を定められている。

 

主人公パーティーは世界を救うため、パラレルワールドと立ち向かうことになる。FGOの舞台設定が巧妙なのは、汎人類史、すなわちこれまでの人類を救うためには、パラレルワールドの世界の生き物全てをなかったものにしなければならないところにある。(というのも剪定事象を認めれば、これまでの汎人類史を否定することになるからである)

 

第一章のロシア編でこの設定を主人公は知らされることになる。そして悩む。汎人類史を救うためとはいえそのようなことをする権利はあるのか、と。最終的には自分の住んでいた世界のために、パラレルワールドを壊すことに成功する。というのもパラレルワールドのロシアは厳しい土地であり、ヤガは苦しそうに生活していたからである。まだ第二章はクリアしていないが、25歳までしか生きられない世界に対する憤慨が見られるため、北欧の章もそのような理屈付けで汎人類史のための旅を続けるのではないかと思われる。(だが考えて欲しい。北欧の人間は25歳で死ぬことになんの不自由も感じていない。我々の基準を勝手に、いや独善的に当てはめているだけであり、あちらではそれが当然なのだ。)

 

そのため主人公は苦悩していて(るように見えて)もプレイヤーはそこまで苦悩していないかもしれない。なぜなら我々の世界の方が優れており、あちらの世界の方はかわいそうだからだ。しかしこの理屈付けによる汎人類史の肯定はすぐに逆転しうる。もしパラレルワールドの方が優れているとしたら、消滅するべきは我々の世界の方だからだ。これは現実の世界でもそうなるかもしれない。AIによる人口生命体が人間を超える日が来るかもしれない。

 

おそらくFGOでも今後汎人類史を超えるような素晴らしい世界と主人公は敵対していくのではないだろうか。もしそうなったとしたらどのような理論で汎人類史を肯定するだろうか。

 

汎人類史の三つのシナリオ

 

一つの方法は宇野常寛の言う決断主義だろう。特に理由はないが俺は汎人類史のために戦うというような類のものである。FGOの主人公が「俺が世界を救う(ドンッ」というのは確かにありそうな感じである。

 

また、FGOの主人公がとりはしないだろう選択肢だろうが、哲学的にあり得るのは諦めるというものである。そもそもなぜ人類(しかも今まで歴史を積み重ねてきた汎人類史)だけが絶滅を免れて然るべきなのだろうか。考えてみると積極的に肯定しうる論拠などないのである。他の種を殲滅してまで生き残って良いというのは倫理的な振る舞いだと言えるだろうか。

 

私はその二つではない新たな選択肢を提示したい。それはある種古めかしくもだからこそ王道な考え、そう、仲間のためである。パラレルワールドを殲滅するのは大変忍び難く苦しいことである。それが自分より高い文明にある世界ならばなおさらだ。だが、仲間の生存のために、ありうべき可能性を探る。FGOの主人公が取るのはそのような利他的な理由であって欲しい。

 

何をジャンプ的な話を、と思われるかもしれないが、生物の進化の観点からいくと至極真っ当な議論ではないかと思われる。人間社会においてこれまで行われてきたのは仲間のために社会を守るということであったからだ。(もちろん、利他的な行為が、他者との争い生む問題や、仲間すらいなくなった世界においてはどうするのか、という議論は残るがそこまで議論を広げると収拾がつかなくなるので後日の宿題としたい)

 

ゲームの歴史的にも人類学的にも非常に興味深い現象をFGOは生み出し続けている。正直歴史オタな自分からすると過去の世界の修正の旅の方が面白かったのだが、SFチック な新編も学問的に非常に興味をそそられる出来になっている。FGOの今後の世界観の提示が待ち遠しい、などと締めようと思ったがそんなことより水着ジャンヌと牛若引けたの自慢したい!!!

 

『聲の形』からコミュニケーションについて考える

あー、社会めんどくせえ、と思った日に『聲の形』を見た。その時々に適切な映画や音楽に出会ったりするので不思議なものである。

 

どうも自分はネタバレせずには映画を語る才能がないらしい。今回もガンガンネタバレしつつ『聲の形』について語っていきたい。

 

ãè²ã®å½¢ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

 

 

ストーリー

 

聲の形』は耳が聞こえない少女、西宮硝子を主人公石田将也がいじめるところから始まる。これがとても嫌という程リアルで良い。小学校という共同体特有の明るいイジメ(いけてる感)がこれでもかと描き出されている。小学生時代を思い出してもこういうことは日常茶飯事だったのでとてもわかる。いじめっ子だった将也が反転、いじめられっ子になる所とか小学生らしい。

 

物語の中心はイジメをしたという消せない罪を背負ったまま将也が高校生になったところからである。人間に不信を覚える将也は友達のいない生活を過ごす。そんな無味乾燥な日々を送っていたが(自殺未遂までいった)、手話を覚えて硝子に会いに行き、なんやかんやあってかつての小学生時代の友達や、新たな友達を得て行くことになる(ここはそんなに重要なところではない笑)。

 

ディスコミュニケーション

 

ところが、である。そんな友情の共同体を将也はぶっ壊す。「硝子と仲良いけどお前いじめてたじゃん」と言われた将也が「じゃあお前らだって○○、△△……」と本音をぶつける。なあなあで集っていた友情共同体に水を差し、仲良しこよしグループは解散してしまう。ここが本作品の重要なテーマ、ディスコミュニケーションである。「耳から言葉が聞こえていても本当に我々は分かり合えているのか?」、「じゃあ分かり合えるとは?」。

 

グループが再び仲良くなるようになるのだが、そのために必要だった行為が大変興味深い点なので説明したい。人生の辛さから硝子は自殺しようとするが、将也がそれを助けようとして死にかける。硝子は将也のために再び友情を構築したいと考え、勇気を持っていろんな人に呼びかける。

 

ディスコミュニケーションを越えるためには?

 

本作品はそんな彼女のひたむきさが周りを動かした、と主張してくる。だが、本当にそうだろうか。わたしは違うと主張したい。周りが動かされたのは将也が死にかけた、まさにその事実にある。痛いところを突かれるようなコミュニケーションをとったが、二度と会いたくないような人物では決してない。だからこそ、二度と会えなくなるかもしれないという事実が、日々のコミュニケーションの尊さの感覚を呼び覚まし、再び集ったのである(ぎこちなくはあるが)。

 

ここに社会科学の問題の一つであるポストモダンを突破する一つの鍵がある。愛とか友情とかいうけど本当に伝わってんの?それって作り上げられた嘘じゃないの?と現実の虚構性を暴き出したのがポストモダンだった。とはいえ、じゃあ全くの嘘なのか。そんなことはない。伝わりあったと思うのが嘘だとしても、それが嘘だとわかった後に社会を生きることの意味とは何か。それを『聲の形』は、その作品が考えるところを超えて教えてくれる。

 

ちなみにオチまで書くと(笑)、声が聞こえてるはずの将也は自分で耳を閉ざしていたことに気づき、耳を澄ましてみると世界は実は美しかったのだと涙を流すシーンで終わりを迎える。TVエヴァ自己啓発的エンドっぽくはあるが、悪くないオチだと思う。

 

サブカルからディスコミュニケーション問題を考えるために

 

まあでも毎回死にかけなければならないのかと考えると気が滅入る。多分他の方法があるはずである。さてここまで書いたらサブカル好きな人ならある作品が思い浮かぶのではないだろうか。そう『俺の青春ラブコメは間違っている』である。なあなあの友情ごっこをぶち壊し、言葉を語り尽くしても分かり合えないと認めつつ、それでも人と繋がりたいと考える比企ヶ谷くんの物語である。ちなみにこちらは未だ物語が続いているためその答は未回答のままである。自分でもその回答を考えつつ、俺ガイルの回答を待ちたい。ちなみに調べたらラノベ最新刊出たらしいので読んでみる。

 

人の顔にバッテンが張られ社会を生きるのが嫌になる話とか、何でも受け入れてくれる女の子ってどうなんとか、もっとエグいぐらいわかり会えなくても良かったかもとか、結局姉ちゃんは顔でないままかよとかまだまだ語りたいことはあるが、ゆづるくん可愛すぎるだろというの最も伝えたかったことかもしれない。

未来のミライ

ブログ始めました。

初回は昨日見てきた「未来のミライ」について語っていきたいと思います。

※初回からなんですが、ネタバレオンパレードなのでご了承いただける方のみお願いします笑

 

ストーリーと概要

 

時をかける少女」、「サマーウォーズ」、「おおかみこどもの雨と雪」、「バケモノの子」の細田守監督の最新作、それが「未来のミライ」です。

 

http://img.unitedcinemas.jp/preview/mirai-movie/images/poster.jpg

 

ストーリー(公式より)

「ある都会の片隅の、小さな庭に小さな木の生えた小さな家。

ある日、甘えん坊の“くんちゃん”に、生まれたばかりの妹がやってきます。
両親の愛情を奪われ、初めての経験の連続に戸惑うばかり。
そんな時、“くんちゃん”はその庭で自分のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ、
不思議な少女“ミライちゃん”と出会います。

“ミライちゃん”に導かれ、時をこえた家族の物語へと旅立つ“くんちゃん”。
それは、小さなお兄ちゃんの大きな冒険の始まりでした。

待ち受ける見たこともない世界。むかし王子だったと名乗る謎の男。
幼い頃の母との不思議な体験。父の面影を宿す青年との出会い。

そして、初めて知る「家族の愛」の形。」

 

妹のミライちゃんが生まれることで、親がミライちゃんにばっかりかまける。嫉妬でいじけて電車をずっといじっている少年くんちゃん。この映画はそんないじけてばっかりのくんちゃんが色々な不思議な体験を経て成長する。それがこの映画の核です。

 

映画の重要な舞台装置

 

「皆ミライちゃん、ミライちゃんって…‥!」とまあこれだけではただの家族あるあるですが、映画を面白いものに引き上げているのが、建物の存在です。

 

映画館でワクワクしながら映画を待ち望んでいた人がまず驚くのは「街」の大きな引き映像とヘンテコな形の「家」です。そして子供が生まれた事で増築され形の変わった新たな「家」を見る事になります。変な家の形だなーと全員思います。映画内でも父親が建築家だからねぇという台詞でもこの点が補完されています。

 

でもこれ見る人が見るととても有名な建築スタイルなんです。メキシコの有名な建築家ルイス・バラガンが創作したフアレス邸にとても似ています。(ルイス・バラガンで画像検索して見てください)

ルイスバラガン - Google 検索

画像を見てわかるように映画で見た階段がありますね。

 

バラガンが建築家として秀でていたのは光の取り入れ形です。自然光を家の中に取り入れる事で自然の美しさを家に入れることを可能にしました。画像検索を見ても自然光の綺麗な画像であふれています。

 

くんちゃんの家も、父親の建築によって中庭に自然光が入るような家にされています。この自然光が日常から離れた不思議な体験を得るための非日常性を生み出す重要な舞台装置になっているんですね。

 

今回の映画で非常に興味深いのは、細田監督の新たな試みとして「モノ」、「建物」、「場所」といったものにフォーカスを当てているところにあると僕は思います。

 

好きなものと好きくないもの

 そんな非日常の中庭ではいろんな不思議なことがおきます。未来から来た妹のミライちゃんと遊ぶ。犬が人に、人が犬になる。ひいじいじと共に馬に乗る。そして未来の自分と出会う。

 

自分と遊んでくれない親、愛を全てもらい受けている(ように見える)ミライちゃん。日常は好きくないものであふれています。非日常の中庭ではいろんな人が遊んでくれるのでくんちゃんは楽しい。そのようにストーリーは進みます。

 

途中までは日常が辛いから非日常の楽しさで補完するくんちゃんの物語か、と思います。少なくとも自分はそう思いました。でも最後の不思議体験はそれを覆して来ます。

 

鉄道が大好きなくんちゃんですが、未来の東京駅で迷子になるシーンが出て来ます。

(※ちなみに建物オタク的な話でいうとあれ未来の東京というよりは今のイギリスやフランスの鉄道駅に近いです笑)

 

そこで、くんちゃんは大好きなはずの新幹線に好きくないもののミライちゃんが取られそうになる。そこでくんちゃんはミライちゃんを選びます。自分の好きよりも家族への愛を優先する行動を取るのです。ここに好きなものと好きくないものの逆転が見られてます。

 

非日常から日常へ

 

そして物語はラストへ向かいます。

 

ひいじいじが戦争から何とか生還したこと、ひいばあばにプロポーズするところを不思議体験で見ます。もしひいじいじが戦争から生還していなければ、ひいばあばと結婚できていなければ……etc。様々な奇跡の上でくんちゃんとミライちゃんは生まれて来た。

 

タイムリープ的な非日常体験によって日常が奇跡によって成り立っていることを知ったくんちゃんは家族のために行動できるような人間になることができました。

 

非日常で日常を補完するのではなく、非日常から日常の大切さを知り、しっかりと社会を歩み出す。タイムリープが家族愛を知るための重要な方法になっているところにこれまでの細田監督の足跡を見ることができるように思います。

 

 

 

時をかける少女」でのタイムリープ、その後の家族愛作品を経て、さらに「建物」や「場所」といった新たなテーマを盛り込むという、細田守監督の持てる全て乗っかったとても良い作品でした。